|年譜とディスコグラフィ|ジョーン・ハラ著『ビクトル・ハラ 終りなき歌』邦訳のための索引|カバー・関連曲(ごく一部)| |
ビクトル・ハラ (1935-1973) を知ったのは、1973年9月11日にチリで起きたクーデターを描いた映画『サンチャゴに雨が降る』が最初です。
選挙によって実現した社会主義政権(人民連合)に反対する勢力が、アメリカの後押しで実行した軍事クーデターでした。
人民連合関係者や支援者は、砲撃され、拘束され、自由を奪われ、命が奪われました。
映画の中で、拘束され、スタジアムに収容された人々の先頭に立っていた人物の名を、あとになって、知りました。
それが、劇作家であり、シンガーソングライターであったビクトル・ハラです。
ハラは、スタジアムから生きて出ることがありませんでした。それ以降、長い間、チリでは彼の名と歌は封印されました。
映画を見て、しばらくして、ビクトル・ハラの歌をラジオで聞きました。いい歌だと思いました。
レコードを探すところまではいきませんでしたが、機会があれば、また聞いてみたい歌でした。
もっとも、聞きたいと思っても、簡単には見つからなかったかもしれません。
シンガーの八木啓代さんは、ちょうど同じ頃、同じようにラジオでビクトル・ハラの歌を聞き、レコードを探しまわったのに見つけられなかったそうです。
のちに南米に留学した八木さんは、そこでハラのレコードを見つけます。思いの深さ、衝撃の深さを思います。
わたしが、ハラの歌をちゃんと聞きたいと思ったのは、1984年、ロバート・ワイアットによる「アマンダの思い出」のカバーを聞いたからでした。
ビクトル・ハラの名は、チリのクーデターの時に虐殺された悲劇の人物、圧政と戦った英雄、殉教者として、語られることが多い。
働く者や圧政に苦しむ者を励まし、たたえる歌についても、よく語られます。代表曲のカバーもたくさんあります。
生き方や姿勢が真摯なので、それを抜きにして語ることを許さない空気があります。そのことは理解できます。
ただ、そのことで、力強さとファンタジックな曲想をあわせもつハラの作品が「わかってる」人たちだけに愛好されるのは寂しい。
歌がきっかけになる、ということがあっていいと思います。
あやしげな編集盤CDや幸運にも見つけた中古盤などで聞いていると、発表順序や活動歴での位置をきちんと知りたくなります。
このページは、ディスコグラフィに類する資料が手に入らなかった頃に、自分のためにまとめたものが元になっています。
夫人であるジョーン・ハラが書いた『ビクトル・ハラ 終りなき歌』(矢沢寛・訳、新日本出版社、1985年11月)を元にして、作成しました。
ジョーン・ハラの回想の中から、活動記録を抜き出し、レコード作品に関する記述を、手持ちのレコードや資料と比較して、まとめています。
知っている歌を、彼の行動や心の動きと思い合わせて聞くために。まだ知らない歌を、聞いていくために。
ビクトル・ハラの生き方や姿勢、影響については、八木啓代さんの本が参考になると思います。
『禁じられた歌〜ビクトル・ハラは何故死んだか』(晶文社、1991年)
『ラテンアメリカ発=音楽通信』(新日本出版社、1991年。1998年に、『危険な歌』と改題され、幻冬舎文庫から再発売)。
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Webページ版の初版は、「ビクトル・ハラ年譜(ディスコグラフィ試作版付)」として、2000年9月3日に発行しました。
しかし、その後、2002年に入り、チリで本格的な復刻CDが発売されたことを知りました。
また、その復刻CDについての情報を探す過程で、とても充実した資料サイト「nuevacancion.net」を見つけました。
それらは、同時に、実物を見ないまま、推測しながら、てさぐりで作った「ディスコグラフィ試作版」が不要になったことを示しています。
そんなにひどいまちがいはなかったようなので、安堵しましたが、残すのであれば、少なくとも、資料面での改訂は必要です。
「nuevacancion.net」を参照して、補足・訂正し、改訂することにしました。
英雄・殉教者として評価し、主義主張に沿った歌ばかり紹介する傾向にあてつけた文章も、少し手直ししました。
▼nuevacancion.net / Victor Jara page
http://www.nuevacancion.net/victor/
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スペイン語のタイトルは、見ただけではぴんときませんので、『終りなき歌』邦訳に登場する邦題を併記しました。
『終りなき歌』では触れられていない曲については、日本発売されたレコードなどから邦題がわかる場合は補足しました(*を付けています)。
スペイン語に特有の記号は、間違いを承知のうえで、省略しました。例えば、疑問文の最初の
? は本当はさかさまになります。
日本語と混ぜると、きちんと表記するのは難しいので、レコードを探すときの参考程度ということでお許しください。
また、『終りなき歌』邦訳の中の歌やレコードに関する記述について、索引を添付しています。
曲名の後ろに付いている印は、初版作成時に持っていたスペイン盤CDとの対照のためにつけたものです。
● "TE RECUERDO
AMANDA / CANTO A SO HUMANO" (Fonomusic CD 3009) (p) 1986
● "EL DERECHO
DE VIVIR EN PAZ / LA POBLACION" (Fonomusic CD 3010) (p) 1988
オリジナルの形での復刻がのぞめないのであれば、編集盤で拾っていくしかないと考え、「持ってない歌」をリストアップするためでした。
チリで発売された復刻盤を手に入れることができれば、これも不要になります。
なお、これらのCDは、スペインの Movieplay が1970年代に発売した編集盤に準拠しているようです。
ビクトル・ハラの編集盤は、さまざまな内容のものが数多く出ています。
日本では、1992年に、新星堂/オーマガトキが、『人間であることの歌〜ベスト15』というCDを発売しています。
現時点では、手に入れにくそうですが(未入手です)、チリで2001年に発売された2種類の編集盤が、もっとも良い編集であるように思います。
選曲内容は、「nuevacancion.net」のディスコグラフィを参考にしてください。
"ANTOLOGIA MUSICAL" (Warner Music Chile 8573 89067-2)
Demon/Arena/DICAPから発売した音源から選曲された44曲を収録した2枚組。
復刻CDシリーズのダイジェストにもなっており、ボーナストラックとして追加されたレアトラックも収録されています。2001年7月発売。"VICTOR JARA 1959-1969" (EMI Odeon Chilena 535779-2)
Odeonから発売された2枚のアルバム(第2作、第4作)、クンクメンやキラパジュンとの共演盤から選曲された40曲を収録した2枚組。
別バージョンや未発表曲、1973年以降に発掘された音源をあわせて収録しています。2001年9月発売。
2001年に発売されたビクトル・ハラの復刻CDは、次の通りです。
"VICTOR JARA +5" (Warner Music Chile 8573 87605-2) ※『ビクトル・ハラ』(1966年発表) 第1作
"PONGO EN TUS MANOS ABIERTAS +6" (Warner Music Chile 8573 87604-2) ※『君の開かれた手の中に』(1969年発表) 第3作
"EL DERECHO DE VIVIR EN PAZ +5" (Warner Music Chile 8573 87606-2) ※『平和に生きる権利』(1971年発表) 第5作
"LA POBLACION +5" (Warner Music Chile 8573 87611-2) ※『ポブラシオン』(1972年発表) 第6作
"CANTO POR TRAVESURA +6" (Warner Music Chile 8573 87609-2) ※『機智がいっぱい』(1973年録音) 第7作
"MANIFIESTO" (Warner Music Chile 8573 87610-2) ※没後発表された1973年作品を中心にした編集盤。新編集。
"VICTOR JARA EN MEXICO (Live 1971) -4" (Warner Music Chile 8573 87607-2) ※発掘された1971年のライヴ録音
"HABLA Y CANTA: En vivo en La Habana, Cuba (Live 1972) +3" (Warner Music Chile 8573 87608-2) ※発掘された1972年のライヴ録音
1954年
兵役を終えたあと、働きながら合唱団に参加。合唱団の仲間といっしょに、フォークソングの採集と調査を目的として、チリ北部を旅行。
1956年
チリ大学の演劇学校に、奨学生として合格。
演劇とともに、音楽にも熱中し、ガールフレンドの助けで、初めて自分のギターを手にする。
友人とともに、そのギターを持って、農村生活の実態についての調査旅行に出て、フォークソングの採集を行う。
1957年
チリのフォークリバイバルの中心人物、ビオレッタ・パラと出会う。パラは、ハラの才能を高く評価し、音楽を続けるように励ました。
また、パラの息子で、少し年下のアンヘル・パラと親交を持つ。アンヘルは、当時アルゼンチンのアタウアルパ・ユパンキに心酔していたという。
1957年
演劇学校の仲間が作ったグループ、クンクメンのアルバムに、ハラが採集した民謡「私は思わず溜息をついた」
Se me ha escapado un suspiro が収録される。
>> Conjunto Concumen album
"EL
FOLKLORE DE CHILE VOL. V" (Odeon LDC-36053)
※"Se me ha escapado un suspiro"
は、ファーストアルバム "VICTOR JARA" の2001年版CDに追加収録されています。
1958年
ビオレッタ・パラが、ビクトル・ハラのために「マリアさま、お願いです」
Dona Maria te ruego と「ご降誕のための十行詩」 Decimas por el nacimiento
を書く。
この2曲は、クンクメンのアルバム『チリのクリスマス』 VILLANCICOS
CHILENOS に収められた。
音楽はあくまでも趣味と考えていたハラは、当初クンクメンのメンバーではなかったが、この頃からメンバーとして活動を始める。
また、ビオレッタ・パラが主宰していたフォークリバイバルの集まりにも顔を出すようになった。
>> Conjunto Concumen album
"VILLANCICOS
CHILENOS" (Odeon LDC-36064)
※"Dona Maria te ruego"、"Decimas
por el nacimiento" は、ファーストアルバム "VICTOR JARA" の2001年版CDに追加収録されています。ハラが参加している民謡
"Entonces me voy volando" も合わせて収録。
※"Dona Maria te ruego"、"Decimas
por el nacimiento" は 2001年9月発売のベスト盤 Victor Jara "VICTOR
JARA 1959-1969" (EMI Odeon 535779-2) に収録されています。
1959年
演劇学校の最終試験に合格し、俳優として本格的に活動を開始すると同時に、演劇学校の仲間と結成した劇団で演出をてがけるようになる。
1961年6月〜10月
クンクメンのヨーロッパツアーに芸術監督として参加。
数曲でステージに上がり、ソロで歌を披露する。初めての自作曲「愛する人よ、君に打ち明けたい」Paloma,
quiero contarte を作る。
1961年12月
演劇研究所の卒業試験として、『白昼の幽霊』を演出。話題となる。
1962年
クンクメンのアルバム『チリの音楽地理』 UNA GEOGRAFIA MUSICAL DE
CHILE に参加する。
ハラによる自作自演作品、「愛する人よ、君に打ち明けたい」Paloma, quiero
contarte、「鉱夫の歌」Cancion del minero が収録された。
ただし、「愛する人よ、君に打ち明けたい」は、"Palomita verte quiero"
と題されているようです。
>> Conjunto Concumen album
"UNA
GEOGRAFIA MUSICAL DE CHILE (EL FOLKLORE DE CHILE VOL. IX)" (Odeon LDC-36369)
※"Palomita verte quiero" は 2001年9月発売のベスト盤
Victor Jara "VICTOR JARA 1959-1969" (EMI Odeon 535779-2) に収録されています。ハラが参加している民謡
"Adios, adios mundo indino" も合わせて収録。
1963年
ニュニョア民俗文化研究所で、フォルクローレのカリキュラムを担当する。
ハラがフォークダンスを、クンクメンのマルハ・エスピノサがギターを教える。
フォルクローレの録音、採集を始める。
1964年
ウルグアイでの『白昼の幽霊』再演時に、サルバドール・アジェンデと知り合う。
アンヘル・パラらと、大統領選に出馬したアジェンデの選挙キャンペーンに参加する。
結果はキリスト教民主党のエドアルド・フレイが勝利。アジェンデは落選。
1965年
演出家としての業績に対して、カリポリカン賞(『浮かれ歩き』に対して)、批評家大賞(『手くだ』に対して)の二つの賞が授与される。
1965年
イザベルとアンヘルのパラ姉弟が、ライヴができるカルチャーセンター的な店、ペーニャ・デ・ロス・パラ(パラ家クラブの意)を開店。
アンヘル・パラのすすめで、ハラも出演するようになる。
1965年
ビクトル・ハラとしてのデビューシングル「料理番の娘」La concinerita
を発売。B面には、 「くわえ煙草」El cigarrito を収録しています。
「料理番の娘」はアルゼンチン北部の民謡、「くわえ煙草」は民謡調査で採集した詞に、ハラが曲をつけたもの。
>> Victor Jara single "LA
CONCINERITA" (Demon SD-0132)
※AB面とも、ファーストアルバム
"VICTOR JARA" に収録。
1966年
シングル「愛する人よ、君に打ち明けたい」Paloma, quiero contarte
を発売。
A面は、クンクメンのアルバムに収録されたことのある自作曲のリメイク。
B面はコンセプシオン地方で採集した民謡「ラ・ベアタ」La beata 。
信心深い女性が司祭に抱く恋心をユーモラスに歌った歌詞が、保守層からスキャンダラスであると指摘され、問題となる。
放送禁止や回収の措置がとられた例もあったらしい。
>> Victor Jara single "PALOMA,
QUIERO CONTARTE" (Demon SD-0152)
※A面は、ファーストアルバム "VICTOR
JARA" に収録。B面は、"VICTOR JARA" の2001年版CDに追加収録されています。
1966年
シングルで発表した曲を含むデビューアルバム『ビクトル・ハラ』 VICTOR
JARA が発売される。
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1. El arado / 鋤* ●
2. El cigarrito / くわえ煙草 ● 3. La flor que anda de mano en mano ● 4. Deja la vida volar ● 5. La luna siempre es muy linda / 月がとても美しい ● 6. Ojitos verdes ● 7. La cocinerita / 料理番の娘 ● 8. Paloma quiero contarte / 愛する人よ、君に打ち明けたい ● 9. ?Que saco rogar al cielo? ● 10. No pudes volver atras ● 11. El carretero / 牛車引き ● 12. Jai jai ● |
1966年
この頃から、ペーニャ・デ・ロス・パラにならい、各地に同様の店が開店。ハラは多くの出演要請を受ける。
1966年冬
フォークグループ、キラパジュンと出会う。音楽監督を依頼され、承諾する。
キラパジュンは、ペーニャ・デ・ロス・パラに出入りしていた学生らによって結成されたアマチュアグループで、マブチュ語で「三人のヒゲ男」という意味。
ハラは、1969年まで、キラパジュンの音楽監督を務める。
1967年
デビューアルバム "VICTOR JARA" 収録曲から、"Jai jai"、 "La
flor que anda de mano en mano" がシングル盤として発売される。
>> Victor Jara single "JAI
JAI" (Arena SD-0204)
1967年3月
シングル「亡霊」El aparecido が発売される。1967年の初めに作られた曲で、E
(Ch) G、つまり、エルネストチェ<Qバラに捧げられている。B面は、"Solo"。
同じ頃、ハラ自身は歌わなかったが、キラパジュンに同じテーマを扱った「兵士」El
soldado を提供。
>> Victor Jara single "EL
APARECIDO" (Odeon 3945)
※AB面とも、セカンドアルバム "VICTOR
JARA" に収録。
1967年
工科大学の学生により結成されたフォークグループ、インティ・イジマニと出会う。
1967年
オデオン社からセカンドアルバム『ビクトル・ハラ』 VICTOR JARA
が発売される。
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1. El aparecido / 亡霊
2. El lazo / 投げ縄 3. Que alegres son las obreras 4. Despedimiento del angelito 5. Solo 6. En algun lugar del puerto +++ 7. Asi como hoy matan negros 8. El amor es un camino que de repente aparece 9. Casi casi 10. Cancion de cuna para un nino vago / 家のない子の子守唄 11. Romance de enamorado y la muerte 12. Ay mi palomita |
1968年
演出家としての業績が評価され、イギリスに演劇の視察旅行に招かれる。
チリのメディアの閉鎖性を痛感するとともに、文明化されないチリ文化の優れた点について認識を新たにする。
イギリス滞在中に、「アマンダの思い出」Te recuerdo, Amanda を作曲する。アマンダは、ハラの母親の名であり、娘の名でもある。
1968年
帰国後、大学改革運動に参加。街頭デモや集会で歌う。この経験から、「モービル・オイル・スペシャル」
Movil Oil Special を作る。
チリの支配層の後ろ盾になっている巨大石油企業と機動隊をかけて、揶揄したもの。
チリ大学では、学生側が勝利し、その結果を受けて、12月に公式行事として、ハラとキラパジュンのジョイントコンサートが開かれた。
1968年
オデオン社からキラパジュンとビクトル・ハラの連名アルバム『アメリカの民衆歌』
CANCIONES FOLKLORICAS DE AMERICA が発売される。
ハラは、「ドゥルメ・ネグリータ」と自作の「廻れひまわり」の2曲で、ヴォーカルをとっている。
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1. Hush-a-bye / ハッシャバイ*
2. Bailecito / バイレシート* 3. Palomas del palomar / 鳩小舎の鳩* 4. Drume negrito / ドゥルメ・ネグリータ* 5. El llanto de mi madre / わが母の涙* 6. El carrero / 牛車の御者* +++ 7. Mare, mare / マレ、マレ* 8. Noche de rosas / 薔薇の夜* 9. Tres bailecitos / 3つのバイレシート* 10. Gira, gira, girasol / 廻れひまわり* 11. Peoncito del mandiocal / マンディオカの畑* 12. El tururururu / エル・トゥルルルル* 13. Coneji / コネヒー* |
1969年
「カルメンシータを殺したのは誰?」?Quien mato a Carmencita? を作る。麻薬を含むアメリカの文化的侵略に対する抗議が込められている。
こうした歌について、ハラ自身は、抵抗歌 protest song ではなく、革命歌
revolutionaly song と呼ぶべきだと考えていたようだ。
1969年
各地の労働組合の集会やパーティに、盛んに招かれる。キラパジュンとともにツアー。
1969年3月
9日に、プエルト・モント郊外の空き地に無断侵入して生活を始めた農民約90名に対し、内務大臣命令で武装警官による機銃掃射が行われた。
農民の約10名が死亡、残りのほとんどが重傷を負う結果となった。
13日、抗議集会が開かれ、そこで「プエルト・モントについての疑問」 Preguntas
por Puerto Mont が歌われた。
この歌に対する反響は大きかったが、反感を持つ人々からのいやがらせを招くこととなった。
1969年6月
青年共産同盟が前年に設立した独立レコード会社DICAPから、アルバム『君の開かれた手の中に』
PONGO
EN TUS MANOS ABIERTASが発売される。
DICAPは、La Discotica del cantar popular の略で、第一弾がキラパジュンの『ベトナムのために』で、今作は第二弾にあたる。
オデオンからは発売できなかった「プエルト・モントについての疑問」や「モービル・オイル・スペシャル」が収録された。
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1. A Luis Emilio Recabarren / ルイス・エミリオ・レカバーレンに捧ぐ* ●
2. A desalambrar / 鉄条網を切れ* ● 3. Dierme, duerme, negrito ● 4. Juan sin tierra / 土地のないフアン* ● 5. Preguntas por Puerto Mont / プエルト・モントについての疑問 ● 6. Movil Oil Special / モービル・オイル・スペシャル ● +++ 7. Camilo Torres ● 8. El martillo / 天使のハンマー* ● 9. Te recuerdo Amanda / アマンダの思い出 ● 10. Zamba del "Che" ● 11. Ya parte el galgo terrible / おそろしい猟犬* ● 12. A Cochabamba me voy ● |
1969年
チリ・スタジアムでの「第一回新しいチリの歌フェスティバル」に参加。オリジナル曲のコンクールも兼ねていた。
政治的すぎるとの理由で公式には参加できなかったキラパジュンをバックに、「耕す者への祈り」La
Plegaria a un labrador を発表。優秀曲のひとつに選ばれる。
シングル盤としても発売された(B面は、「アマンダの思い出」Te recuerdo
Amanda)。
>> Victor Jara single "PLEGARIA
A UN LABRADOR" (Jota Jota JJS-101)
※A面は、シングルバージョン。別バージョンが、1971年のアルバム
"EL DERECHO DE VIVIR EN PAZ" に収録されます。B面は、1969年のアルバム "PONGO
EN TUS MONOS ABIERTAS" に収録。
※シングルバージョンの "Plegaria
a Un Labrador" は、アルバム "PONGO EN TUS MANOS ABIERTAS" の2001年版CDに追加収録されています。
1969年
「プエルト・モントについての疑問」、「耕す者への祈り」が評判になるにつれ、右翼勢力からの攻撃もひどくなる。
1963年以来、フォルクローレ研究の拠点として活動してきたニュニョア民俗文化研究所は、新しいニュニョア市長バルビナ・ベラにより、閉鎖された。
1970年
オデオン社から4枚目のアルバム『自由の歌』 CANTO LIBRE を発売。
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1. Inga
2. Cancion al arbol del olvido 3. La pala 4. Lamento borincano 5. Ventolera 6. El tinku +++ 7. Angelita Huenuman / アンヘリータ・ウェヌマン 8. Corrido de Pancho Villa 9. Caminando, caminando 10. ?Quien mato a Carmencita? / カルメンシータを殺したのは誰? 11. Canto libre / 自由の歌 |
1970年
9月の大統領選へ向けた活動が具体的に始まる。反政府勢力が結集し、人民連合として活動を始め、サルバドル・アジェンデが候補として擁立される。
1970年
人民連合のグループのひとつ、BRP(Brigadas Ramona Para) に所属していた18歳の青年、ミゲル・アンヘル・アギレラがデモ参加中に警官に撃たれて死亡する。
この事件に触発されて、「魂は旗に満ちて」El alma Ilena de banderas が作られ、8月の「第ニ回新しいチリの歌フェスティバル」で発表された。
1970年
人民連合のキャンペーンのテーマソングとして、行進曲風の「ベンセレーモス」
Venceremos (我々は打ち勝つ!の意)が作られる。
ハラが作詞し、セルヒオ・オルテガが作曲した。
(詞は、アジェンデ政権誕生後に、クラウディオ・イトゥラによる新しいものに改められた。)
1970年9月4日
大統領選で、人民連合のアジェンデが勝利し、大統領となる。
軍の最高司令官シュナイダー将軍が民主的な手続きの支持を表明したが、国会承認の二日前の10月22日に何者かに撃たれ、26日に死亡した。
1970年9月〜10月
ベルリン国際芸術フェスティバルに、演出家として招待され、不本意ながら渡欧。
1970年10月24日
アジェンデが大統領として国会に承認される。この日、ハラはチリに帰国。アジェンデ大統領誕生を記念した11月3日の文化フェスティバルに、出演。
1971年
シングル「どっちつかず」 Ni chicha ni limona 発売。B面は、「B.R.P.」。
>> Victor Jara single "NI CHICHA
NI LIMONA" (DICAP JJS-111)
※AB面とも、アルバム "EL DERECHO
DE VIVIR EN PAZ" に収録。
1971年4月
DICAPからアルバム『平和に生きる権利』 EL DERECHO DE VIVIR EN PAZ
を発売。
タイトル曲は、「文化侵略を侵略する」というコンセプトにより、異色のロックナンバーとして仕上げられた。
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1. El derecho de vivir en paz / 平和に生きる権利 ●
2. Abre la ventana /窓を開けて ● 3. La partida / 出発* ● 4. El nino yuntero / しばられた子供* ● 5. Vamos por ancho camino/ 広い道を* ● 6. A la molina no voy mas / モリーナへは行かない* ● 7. A Cuba ● 8. Las casitas del barrio alto / 丘の高みの住宅地 ● 9. El alma LLena de banderas / 魂は旗に満ちて ● 10. Ni chicha ni limona / どっちつかず ● 11. Plegaria a un labrador / 耕す者への祈り ● 12. B.R.P. ● |
1971年
国営テレビのジングルや、アニメ番組『テビト』の音楽など、インストゥルメンタル曲を多く手がける。
演奏には、インティ・イジマニや、元キラパジュンのパトリシオ・カスティヨを起用した。
そのうちのひとつ、「チャラグア」 Charagua は、シングル盤として発売された。
1971年
シングル "Oiga pues m'hijita" を発売。B面は、"Muchachas del telar"。
>> Vicotr Jara single "OIGA
PUES M'HIJITA" (DICAP JJS-123)
※AB面とも、アルバム "EL DERECHO
DE VIVIR EN PAZ" の2001年版CDに追加収録されています。
1971年6月
寒波がチリを襲い、低所得者居住地区ポブラシオンが打撃を受ける。大学等が、救援のために開放され、ハラらも救援作業にあたった。
避難してきた子供のひとり、ルチンについての歌が作られる。
1971年11月
チリの文化使節として、ラテンアメリカ各国へ長期演奏旅行を行う。
おそらくこのときにメキシコで録音されたライヴ音源が、1992年になって発掘され、"CANCION
DE PROTESTA" としてメキシコで発売されています。
1996年には、3曲を追加した15曲収録のチリ盤 "EN MEXICO" が発売されました。
>> Vicotr Jara album "EN MEXICO"
(Casa de las Americas)
※2001年に、復刻CDが発売されています。ただし、"A
desalambrar"、"La carta"、"Juan sin tierra"、"El lazo" の4曲が削除されているそうです。
1972年
キューバから招待され、キューバ各地でコンサートを開く。
3月4日にハバナの「Sala Central de la Casa de las Americas」で行われたコンサートの録音が、1996年になって発掘され、キューバで発売されています。
>> Vicotr Jara album "HABLA
Y CANTA: En vivo en La Habana, Cuba" (Casa de las Americas)
※2001年に、復刻CDが発売されています。1972年にキューバで発売したシングルから
"Una palabra solamente" とラジオ出演時の録音2曲が追加収録されています。
1972年
アルバム『ラ・ポブラシオン』 LA POBLACION を制作する。
低所得者居住地区ポブラシオンの歴史をテーマに据え、数週間にわたり、ポブラシオンを訪ねて、取材した。
アルバムは、取材した生の声も聞けるトータルアルバムとなっている。
また、イザベル・パラ、ハラが指導していた若手グループのカンタマラントとウアマリなどの多彩なゲストが参加した。
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1. Lo unico que tengo / 私が持っているのは私の手だけ ●
2. En el rio Mapocho ● 3. Luchin / ルチン ● 4. La toma - 16 Marzo 1967 ● 5. La carpa de las coliguillas / 売春婦の小屋 ● 6. El hombre es un creador / 人間は創造者 ● 7. Herminda de la Victoria ● 8. Sacando pecho y brazo ● 9. Marcha de los pobladores ● |
1972年
シングル "LA BALA" を発売。B面は、"Que lindo es ser voluntario"。
>> Vicotr Jara single "LA BALA"
(DICAP JJS-143)
※AB面とも、2001年発売のCD "MANIFESTO"
に収録されています。
1972年
シングル "VENIAN DEL DESIERTO" を発売。B面は、パブロ・ネルーダの詩による
"Poema 15"(15番目の愛の歌*)。
>> Vicotr Jara single "VENIAN
DEL DESIERTO" (DICAP JJS-145)
※AB面とも、アルバム "EL DERECHO
DE VIVIR EN PAZ" の2001年版CDに追加収録されています。
1972年10月
反人民連合勢力による大がかりな交通ストライキが実施される。人民連合政権の経済的な破綻を意図したもの。
前後して、抗議活動やテロが相次ぐようになる。
農民組織ランキル同盟代表の訪問を受け、その招きで南部に旅行、マプチェの農民の歴史を訪ねた。
1972年11月
国民的詩人であり、大使としてフランスに駐在していたパブロ・ネルーダが帰国し、歓迎式典が行われる。ハラの総指揮によるもの。
1973年1月〜2月
国会選挙キャンペーンに奔走する。
選挙は、人民連合がより議席を増やす結果となり、人民連合反対派に民主的な手続きによるアジェンデ政権打倒の困難さを認識させた。
1973年5月
人民連合支援活動をしていた青年ロベルト・アウマダが、右翼テロ反対のデモを行っている最中に狙撃され、死亡する。
選挙キャンペーンで、アウマダに会ったことがあるハラは、彼を追悼し、「仕事場への道すがら」
Cuando voy al trabajo を書いた。
また、不穏な空気に対するネルーダの声明を受けて、ネルーダの詩の一節に曲をつけ、反右翼キャンペーン番組のテーマ曲として発表。
※この曲のタイトルを特定できていません(きじま)。
1973年
シングル "CAI CAI VILU (La serpiente luminosa)" を発売。B面は、"Huillimalon
(Doncella encantada)"。
>> Victor Jara single "CAI CAI
VILU" (DICAP JJS-153)
※AB面とも、2001年発売のCD "MANIFESTO"
に収録されています。
1973年
シングル "MARCHA DE LA CONSTRUCCION" を発売。B面は、"Parando los tijerales"。
>> Victor Jara single "MARCHA
DE LA CONSTRUCCION" (DICAP 番号不明)
※AB面とも、2001年発売のCD "MANIFESTO"
に収録されています。
1973年
チリにやってきたアメリカのフォークシンガー、フィル・オクスと、活動家ジェリー・ルービンと出会う。
1973年
政情不安が続くなか、ミゲル・エルナンデスの詩集に想を得た「人民の嵐」
Vientos del pueblo を作り、インティ・イジマニとともに録音した。
1973年6月〜7月
ペルーの国立文化研究所に招かれ、ペルー各地でコンサートを行う。この旅の途中で、マチュ・ピチュの遺跡を訪ねている。
しかし、チリでは、この頃、不発に終わったクーデターが試みられ、反アジェンデ政権勢力によるストライキが始まっていた。
1973年8月
南部チリの滑稽歌や猥歌を採集したアルバム『機智がいっぱい』 CANTO
POR TRAVESURA 制作。
政治的な閉塞状況に対して、素朴な笑いを取り戻そうと企画されたもので、かつて回収騒ぎを起こした「ラ・ベアタ」も含まれていた。
9月に発売するために、プレスまで済んでいたが、店頭には並ばなかった。
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1. Brindis
2. La palmatoria 3. Vengan a mi casamiento 4. La fonda 5. La dead de la mujer 6. La cafetera 7. La diuca 8. Iba yo para una fiesta 9. Por un pito ruin 10. La beata / ラ・ベアタ 11. Adivinanzas 12. El chincolito |
1973年8月
家族を疎開させる。ジョーン・ハラは、このとき、ハラが、娘のアマンダといっしょに歌を作っていたエピソードを伝えている。
この頃、遺言のような歌、「宣言」 Manifesto を作る。
1973年9月11日
工科大学での「内戦とファシズムの恐怖についての特別展」の開会式に出席する日の朝、ラジオで軍の不穏な動きについてのニュースを聞く。
ハラは、工科大学に出向くが、そこでクーデターが勃発。ピノチェットに率いられた軍により、各地が爆撃され、大統領府も爆撃された。
工科大学にいたハラは拘束されて、チリ・スタジアムに連行された。
1973年9月18日
死体収容所でハラの遺体が、ジョーン・ハラにより確認される。手首が不自然な角度で垂れており、打ち砕かれていることがわかったという。
葬儀が行われた後で、報道機関に対して、ハラに言及しないよう命令が下った。
ハラとともに収容されていた人々の証言により、人民連合派を代表する歌手として目をつけられ、リンチを受けたことがのちに判明した。
「歌えるものなら歌ってみろ」と脅迫されたハラは、ひるまずに「ベンセレーモス」を歌ったという。
1974年
ジョーン・ハラによる詞の英訳朗読をまじえた追悼アルバム "MANIFESTO"
がイギリスで発売される。
代表曲とともに、1973年に録音されながら、発表することができなかった曲「Aqui
me quedo」、「仕事場への道すがら」、「人民の嵐」、「宣言」を収録している。
「Aqui me quedo」は、パブロ・ネルーダの詩に、ハラが曲をつけたもの。ネルーダは、クーデタの2週間後、1973年9月23日に亡くなっている(病死)。
最後に収められている「チリ・スタジアム」は、ハラが最期に遺したメモを英訳したもので、詩人のエイドリアン・ミッチェルが朗読している。
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1. Te recuerdo Amanda / アマンダの思い出
2. Canto libre / 自由の歌 3. Aqui me quedo / 私はここに* 4. Angelita Huenuman / アンヘリータ・ウェヌマン 5. Ni chicha ni limona / どっちつかず 6. La plegaria a un labrador / 耕す者への祈り +++ 7. Cuando voy al trabajo / 仕事場への道すがら 8. El derecho de vivir en paz / 平和に生きる権利 9. Vientos del pueblo / 人民の嵐 10. Manifiesto / 宣言 11. La partida / 出発* 12. Chile Stadium [Estadio Chile] |
●曲名(邦題)索引
「愛する人よ、君に打ち明けたい」Paloma, quiero contarte p.52,
p.63, p.70
「アマンダの思い出」 Te recuerdo, Amanda p.99-101
「アンヘリータ・ウェヌマン」 Angelita Huenuman p.79-80, p.190
「家のない子の子守唄」 Cancion de cuna para un nino vago p.72
「幾度変わっていくだろう」 p.168
「丘の高みの住宅地」 Las casitas de barrio alto p.149-150
「カルメンシータを殺したのは誰?」 ?Quien mato a Carmencita? p.105-107
「牛車引き」El carretero p.76
「くわえ煙草」 El cigarrito p.70
「鉱夫の歌」 Cancion del minero p.63
「仕事場への道すがら」 Cuando voy al trabajo p.203-205
「人民の嵐」 Vientos del pueblo p.209-211
「宣言」 Manifesto p.221-223
「耕す者への祈り」 La Plegaria a un labrador p.119-121
「魂は旗に満ちて」 El alma Ilena de banderas p.133-134
「チャラグア」 Charagua p.151
「チリ・スタジアム」 Estadio Chile p.251
「月がとても美しい」 La luna es muy linda (La luna siempre es muy linda)
p.11
「どっちつかず」 Ni chicha ni limona p.149
「投げ縄」 El lazo p.75-76, P.190
「人間は創造者」 El hombre es un creador p.192
「売春婦の小屋」 La carpa de las coliguillas p.192
「BRP」 p.148
「プエルト・モントについての疑問」 Preguntas por Puerto Mont p.114
「不屈の民」 El pueblo unido jamas sera vencido p.178 (ハラの曲ではないが、このスローガンが生まれた背景が書かれています)
「兵士」 El soldado p.105 (キラパジュンに提供)
「平和に生きる権利」 El derecho de vivir en paz p.146
「ベンセレーモス」 Venceremos p.134, p.250
「亡霊(E (Ch) Gへ)」 El aparecido p.103
「窓を開けて」 Abre la ventana p.147-148
「モービル・オイル・スペシャル」 Movil Oil Special p.110
「ラ・ベアタ」 La beata p.70
「料理番の娘」 La cocinerita p.70
「ルチン」 Luchin p.157-158
「私が持っているのは私の手だけ」 Lo unico que tengo p.190
●レコード索引
クンクメン『チリのクリスマス』 VILLANCICOS CHILENOS p.30
クンクメン『チリの音楽地理』 UNA GEOGRAFIA MUSICAL DE CHILE p.63
『君の開かれた手の中に』 PONGO EN TUS MANOS ABIERTAS
p.117, p.150
『自由の歌』 CANTO LIBRE p.150
『平和に生きる権利』 EL DERECHO DE VIVIR EN PAZ p.146
『ラ・ポブラシオン』 LA POBLACION p.190
『機智がいっぱい』 CANTO POR TRAVESURA p.218
●曲名(原題)索引
Abre la ventana(窓を開けて) p.147-148
El alma Ilena de banderas(魂は旗に満ちて) p.133-134
Angelita Huenuman(アンヘリータ・ウェヌマン) p.79-80, p.190
El aparecido(亡霊(E (Ch) Gへ)) p.103
La beata(ラ・ベアタ) p.70
BRP p.148
Cancion de cuna para un nino vago(家のない子の子守唄) p.72
Cancion del minero(鉱夫の歌) p.63
La carpa de las coliguillas(売春婦の小屋) p.192
El carretero(牛車引き) p.76
Las casitas de barrio alto(丘の高みの住宅地) p.149-150
Charagua(チャラグア) p.151
El cigarrito(くわえ煙草) p.70
La cocinerita(料理番の娘) p.70
Cuando voy al trabajo(仕事場への道すがら) p.203-205
El derecho de vivir en paz(平和に生きる権利) p.146
Estadio Chile(チリ・スタジアム) p.251
El hombre es un creador(人間は創造者) p.192
El lazo(投げ縄) p.75-76, P.190
Luchin(ルチン) p.157-158
La luna es muy linda (La luna siempre es muy linda)(月がとても美しい)
p.11
Manifesto(宣言) p.221-223
Movil Oil Special(モービル・オイル・スペシャル) p.110
Ni chicha ni limona(どっちつかず) p.149
Paloma, quiero contarte (愛する人よ、君に打ち明けたい) p.52,
p.63, p.70
Plegaria a un labrador(耕す者への祈り) p.119-121
Preguntas por Puerto Mont(プエルト・モントについての疑問) p.114
El pueblo unido jamas sera vencido(不屈の民) p.178 (ハラの曲ではないが、このスローガンが生まれた背景が書かれています)
?Quien mato a Carmencita?(カルメンシータを殺したのは誰?) p.105-107
El soldado(兵士) p.105 (キラパジュンに提供)
Te recuerdo, Amanda(アマンダの思い出) p.99-101
Lo unico que tengo(私が持っているのは私の手だけ) p.190
Venceremos(ベンセレーモス) p.134, p.250
Vientos del pueblo(人民の嵐) p.209-211
手元にあるレコードから、ビクトル・ハラのカバーや関連曲を拾ってみました。邦題は、上記のディスコグラフィに合わせました。
●カバー
「アマンダの思い出」 Te recuerdo, Amanda
..... Robert Wyatt "WORK IN PROGRESS" (1984)
「出発」 La partida
..... The Happy End "THERE'S NOTHING QUITE LIKE MONEY" (1985)
「人民の嵐」 Vientos del pueblo
..... Isabel Parra "VIENTOS DEL PUEBLO" (1977)
「宣言」 Manifesto
..... Isabel Parra "VIENTOS DEL PUEBLO" (1977)
「耕す者への祈り」 La Plegaria a un labrador
..... 篠田昌已 "COMPOSTELA" (1990)
..... コンポステラ "轍" (1995) ※1991年10月12日・京大西部講堂
"DDD 1012 MIXTRAX" でのライヴ
..... 野戦の月 "バンブーアーク" (1995) ※桜井芳樹氏のギター演奏
..... 林栄一/中尾勘ニ/関島岳郎 "PHOTON" (1999)
「魂は旗に満ちて」 El alma Ilena de banderas
..... Quilapayun "EL PUEBLO UNIDO JAMAS SERA VENCIDO" (1975)
「平和に生きる権利」 El derecho de vivir en paz
..... グラウンド・ゼロ "プレイズ・スタンダーズ" (1997) ※コンポステラの「篠新3/4」とミックスして演奏
●関連曲
「ベンセレーモス」 Venceremos
..... Inti-illimani "VIVA CHILE !" (1976)
※チリ人民連合のキャンペーンソング。詞は、ハラによるものではなく、アジェンデ政権成立後に改められたクラウディオ・イトゥラによるもの。
「ベンセレーモス」 Venceremos (We Will Win)
..... Working Week featuring Tracy Thorn & Robert Wyatt "VENCEREMOS"
single (1984)
※チリ人民連合のキャンペーンソングとは同名異曲のオリジナルだが、ビクトル・ハラとチリの人々に捧げられている。
【2002.02.20.】 チリで、2001年に発売された復刻CDシリーズと編集盤について、資料サイト
"nuevacancion.net" を参照し、追記。あわせて、文章を一部、改稿。
【2000.10.18.】 邦訳索引の順序、「出発」収録のハッピー・エンドのアルバムタイトルに誤りがあったので、訂正。グラウンド・ゼロのカバーを追加。
【2000.09.11.】 スペインのフォノディスクから出ている復刻CDについて追記。
(c) 2000, 2002 Kijima, Hebon-shiki