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2023年1月1日〜2023年1月7日


1月1日(日) 【▼ぐりぐらメモ/2023年1月1日】
 木曜日、既に記憶がない。朝、『ハコヅメ』再放送をやっていた。途中からだけど、母を誘導することに成功。楽しんで見ていた、と思う。翌金曜は、弟たち一家と墓参りと昼食会があったので、もう気が向かなかったみたい。

 墓参りは、行きのタクシーで、小さく、"Let 'Em In" がかかっていたので、思わず「ポール・マッカートニーですね」「お好きなんですか」とドライヴァーに話しかけそうになった。少し経って、ラジオであることに気付いた。あぶなかった。そう言えば、このところ、タクシーに乗っても、ラジオがかかっていた記憶がない。あとで調べてみたら、FM COCOLOだった。

 もしかしたら弟たちが家にあがるかもと思って、周囲をとりあえず、片付け…移動させ、た。このまま、片付けに入りたかったけど、「他にやらなあかんことがある」ので、控えた。やらなあかんこと、はやらなかったのだが、掃除を少しだけ。

 夜、配信最終日のサラ・ガウロン監督『サフラジェット(SUFFRAGETTE)』(2015)を「GYAO!」で。可能性への恐怖が持つ恐ろしさ、訳のわからなさを前にして、何ができるのかを問うことに、未来も花束もない。時代の趨勢で片付けられても困る。証明できないにしても。

 土曜日朝、KBS京都「大友良英のJAMJAMラジオ」篠田さん特集(3)(2022.12.30、24:30-25:00)とe-radio(FM滋賀)「life」のよしこストンペア出演回(2022.12.30、10:00-11:00)を、radikoエリア&タイムフリーで聞く。

 土曜日は午前中に買い物、夕方も買い忘れたものがあるということであちこちハシゴして買い物。あとは、母の『孤独のグルメ』再放送や特番視聴につきあっていました。『孤独のグルメ』だと、おとなしく文句言わずに、disることなく見てくれるので。夜、デイケアが休みということで、11か月ぶりに自宅風呂にも入った。と言っても、湯舟にはつからず、湯をかけて洗っただけだと思うけど(わたしは、声がかかったら動くということで、外で待機していた)。

 『孤独のグルメ』特番を途中で諦めて、母が就寝したあと、またも配信最終日ということで、廣木隆一監督『ここは退屈迎えに来て』を見た。大晦日に見る映画ではないような気がするけれど。過去と現在を行き来し、主要な登場人物の名前が明かされていないことで、誰かと誰かは実は同一人物だったというようなことになるのかと思いながら、見ていたのだけど、そうした映画ではなかった。内面にも踏み込まない。空回りし続けている思いの成り行きを淡々と描いていた。同一人物でないとしたら、あの子はどうなったのだろうというもやもやを残しつつ。

 書き忘れというほどのことではないけれど。退職にあたって、お客さんにはメールでの挨拶のみ(在宅勤務のひとも多いし)だったけど、構内の売店のひとには直に挨拶して、御礼を伝えた。昼食を買いに行くから、ついでと言えば、そうなのだけど、いろいろ声をかけてもらったから。本の割引とか。仕事場が移転する前の売店のひとたちにもよくしてもらった。毎日、決まった時刻に買いに行っていたから、ではあるけれど。

 きょうは、慎ましく、新年を迎えた。4時に起きて、2023年の一枚目として、しょうにゅうどう『ほろほろ』を聞いた。「死ぬかと思った。」を聞きながら、餅ほつかえ(させ)ないように気をつけて生きようと思った。とぼけた味わいの歌が第一印象として残ると思うけど、「春の味」、「赤い花 青い街」、「サドの娘さん」を聞くと、低く静かに持続する緊張感が身にしみ込んでいることを実感する。

 店は閉まっているので、外に出ず。『孤独のグルメ』はずっと流れていたけれど、さすがにこれだけ続けて見ると、母も、ネクタイの柄とか昼食代とか仕事として成り立っているのかといったことが気になり始めていて、あぶなかった。
 夜、録画しておいたレミ・シャイエ監督『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん (Tout en haut du monde)』を見た。去年、NHK教育で放映されて、良かった旨の投稿を見て、見たいと思っていたもの。一年経って、再放送。昔のロシアのアニメーション『雪の女王』を思い起こした冒険と成長の物語。

1月2日(月)
[一回休み]
1月3日(火)
[一回休み]
1月4日(水)
[一回休み]
1月5日(木) 【▼ぐりぐらメモ/2023年1月5日】
 駅前の駐輪場の定期券は、会社からの支給は受けておらず、持ち出しだったから、毎日でない場合は、都度払うほうが安いし、通勤先は郊外だったので、大阪や京都の街中への利用にはほとんど影響しなかったのだけど、心理的に「もがれた」かんじになってるような気がする。明けてからこっちは、昼夕の買い物を除くと、外に出ていない。

 1月分の給料が月末に出てから一か月間、つまり、2月末まではいままでどおりなのだけど、既に節制モードに入ってる。これまでの安心は自転車操業によるものだったのか。働いているうちは大丈夫、という。
 休みにしても、弊社は1月4日まで休みなので、きのうまでは例年どおりで、きょう、やっと、いわゆる「有休消化」に入ったのだけど、これまでは仕事のことをぼんやりとでも考えていたのだなと思う。それまでに年賀状を書いてしまわないと、とか(それは仕事に関係ない)。
 家を空けていることによるヤキモキは、一時間弱離れた仕事場に出ないからとて無くなるものではなく、むしろ、諦めの部分がなくなって、間欠的に強くから、弱く、ずっと続いているかんじに変わっていくような気がする。

 通勤をしないことで、通勤時のストレスは減るだろうか。エスカレーターで、両側に立ってとアナウンスされているのにエスカレーターの片側を空けるひとたちや、歩くなとアナウンスされているのに空いた片側を歩いたり走ったりするひと。通路で、混雑回避のために右側通行がお願いされているのに左側につっこんでいくひと。ホームでは、二列に並ぶよう線が引かれているのに人の後ろに付いて一列になってしまうひとたちや、点字ブロックを空けるように線が引かれているのに無視して、点字ブロックの上に並ぶひと。車内では、ごっついリュックを背負ったまま、両手で吊革につかまっていたひとや、日経を縦に四つ折にして、パンパン叩きながら立てて、センターラインを越え、背中合わせのひとにぶつかるのもかまわず、のけぞって読むひと。かっこいい(と自分では思っている)ひとたち。そうしたひとたちに「たまに」遭遇することのほうが大きなストレスになるのではないか。それをストレスと感じて、こじらせない心の準備が必要。

 そう言えば、通勤路の乗換駅で、面白いアナウンスをするひとがいた。満員状態に駆け込み乗車しようとするひとたちがいると、「次の列車をご利用ください」とやんわり言うのが常だけど、そのひとは「このままでは発車できません」と言っていた。罪悪感、うしろめたさに訴える作戦。録音しておこうと何度かトライしたけど、そういうときに限って、すんなり乗車が続いて、聞けず、記録し損ねてしまった。新型コロナウイルス蔓延以降、同じ時刻に乗っていても、混み具合が日によってちがうようになった。沿線各地での出勤状況が重なり合った結果なのだろう。

 早くに眠ってしまって、夜中に起きることは続いているし、携帯電話にセットしてあるアラームよりも先に目が覚めるのも相変わらずだけど、このところは二度寝している。夜中に起きたときはなかなか寝付けないことも多いけれど、そんなときは、社会問題についてレクチャーしている動画を流す。短いものでも、最後まで聞けた験しがない。

 NHK-FMで、3日の夜に放送していた「プはプログレのプ」という特番は、4日の早朝に聞き逃し配信で聞いた。去年の秋に続く、2回目だそうで、今回は「ジャズロック無頼篇」と題されていた。アラン・ホールズワース率が高い中、ゴング "Master Builder" のライヴ録音(1974年6月)で締められていて、なんだか丸め込まれてしまった。80年代までのスティーヴ・ヒレッジ年表を改訂する材料は揃っているのだけど、どうしたものだか。というか、このあたりの記事は、前回無職になったときの資料整理を元にしていて、2003年10月に前職(と言ってしまう)を始めた途端に更新できなくなってしまったので、また無職になってしまった途端に手を付けるというのも、どうなんだか。
 4日の夜には、昨年9月23日に放送されたらしい第1回(シンフォニックロック特集)再放送の聞き逃し配信を聞いた。シンフォニック・ロックはそんなにぐっとくることはないのだけど、番組でもそんなにこだわってなさそうな選曲だった。わたしにとっての「シンフォニック」なやつとイメージが合っていたのは、難波弘之さん選曲のプレミアタ・フォルネリア・マルコーニでした。

 4日の夕方、ひさしぶりに買い物以外の目的で外出したけど、混んでいて、空振り。外で年賀状を書くつもりだったけど、書けなかった。

 夜は、その後、ドナルド・トランプによる共和党乗っ取りの経緯を追ったドキュメンタリーを見てから、寝るつもりで、チラシに見覚えがあった山内ケンジ監督『友だちのパパが好き』が「GYAO!」にあったので、見始めたら、眠れず、最後まで見てしまった。岸井ゆきのさんや石橋けいさんが出ているコメディだと思って見始めたのだけど、コメディではなく、描かれていたのは、恋愛に対して直情的な若い女性に振り回される男の周囲にいるひとびとの倦怠だった。当事者はまったく気にしてなさそうなところがコメディと言えばコメディだけど、怖い。

 きょうは、明けて早々に故障したコンロの点検のため、待機。その後、居間を離れて、年賀状書き。書けたところまで、夕方に投函した。居間にいる間は、寝ている間も、母に応ずる状態を維持しているので、音楽を聞いたり、文章を書いたり、考えごとをしたりすることが難しい。その間、何をやっているかと言えば、漫然とSNSを見たり、データの整理をやっているのだった。

1月6日(金)
[一回休み]
1月7日(土) 【▼ぐりぐらメモ/2023年1月7日】
 金曜日。デイケアに母を送り出してから、外出。一週間ぶりに最寄駅に行き、駅前のATMで財布の補充と振り込み。口座を持っている銀行の家からいちばん近いATMなのだけど、月末から工事のため閉鎖するとある。うーん。再開しないまま、無くなるということも考えられるので、溜息。退職したことによる不便のひとつは、「ふだん居る場所」からATMが遠くなったことだったのだけど、さらに遠くなってしまう。いままでは、仕事場を間借りしている建屋の出入口前にATMがあったので、80歩+15歩でたどりつけたのだ。いつも売店に行く途中、トイレに行くついで、早い時刻なら帰りに寄って、利用していた。残っていたとしても、本社に戻すという話が出ていたので、どちらにしても早晩離れることになったのだと思うけれど。本社だと、最寄駅前に銀行があるけれど、勤務中は昼休みしか出られないし、7、8分はかかったはずで、混んでいると思うので、不便にはなったと思う。

 不便と言えば、トイレも、言うたら、仕事場で済ませていたので、その分、「浮いて」いたと言えなくもない。消毒スプレーと水道も使い放題(自社および間借りしているメーカーの負担)だったので、その分も。

 駅前の駐輪場で、定期カードと番号札の返納。古参のひとたちが居られなかったので、御礼を伝えられなかった。あっさり解約した。駐輪場ができたときからの定期利用者だったので、たぶん、初めて、一時利用券で、駐輪した。支払いの他、何度か利用方法が変わっているけれど、途中から、一時利用は一階と地階、定期利用は二階と三階に分かれたので、地階に停めるのもひさしぶりだった。

 最終出社日以来の電車。IC定期券を、チャージして。表面に印字された定期情報は、期限終了後に使用するときに消えるのかなと思っていたのだけど、そのままみたい。

 「シネ・リーブル梅田」に三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』を観に。チケットの確保とともに、売り切れのところが出ているという噂を聞いていたので、パンフレットの確保ができればと早めに行ったのだけど、既に「完売」になっていた。昼食を兼ねて、どこかで休憩と思ったけど、結局、「ドトール」に。まだ書けていなかった年賀状の返事を書いた。中学以来の友人、Yは、これまでも、住所を途中まで書いていなかったり、郵便番号を書いていなかったりしたけど、今回はついに名前も住所も書いていなかった。字と文面でわかるけど。

 『ケイコ 目を澄ませて』。耳が聞こえないボクサー、小河ケイコ(岸井ゆきの)のトレーニングと仕事の繰り返しの日々が、淡々と、と言うよりも、底にざわざわしたものを持続させながら、描かれる。映し出されるジムの周辺の景色とともに聞こえる日常音は、ケイコには聞こえていないけれど、聞こえるわたしにも、景色以外に何もないことを感じさせた。自分でもつかみ切れていない「理由」あるいは「信頼」に、日々の繰り返しと状況の変化の中で少しずつ迫っていく物語でした。パンフを手にできなくて、とても残念。ケイコのトレーニング記録は載っているだろうか。

 駅に戻る途上で、「THE BIG ISSUE」No.444(三浦透子インタビューなど)を購入。販売員に遭遇することを予期して、下調べしておかんとあかんなぁ。「バナナレコード」と「紀伊國屋書店」に寄ったけど、何も買わず。後者では、買おうと思っている本の上に鞄を置いて立ち読みしているひとがいて、がっくりきてしまって、見送った。芸能コーナーに、「murren」の若菜晃子さんの著書が並んでいるので、「なんで?」と思ったら、ドラマに登場人物の愛読書として登場していたらしい。

 今日は、昼から、「茨木市福祉文化会館」での小森はるか監督『空に聞く』(2018年)上映とトークセッション。ちょうど開場時刻あたりに雨の予報が出ていたので、早めに向かったけれど、近く(市役所など行政機関が並ぶ一角)に開いている手頃な店がなくて、コンビニで調達して、広場になっている旧市民会館跡で昼食という、ライヴ前かよ、なことに。
 場内には若いひとも多いな、と思ったら、主催が、追手門学院大学社会学部なのでした。

 『空に聞く』は、「陸前高田災害FM」のパーソナリティ、阿部裕美さんの活動を中心に嵩上げ工事による新しい町作りへと向かう陸前高田市を記録したドキュメンタリー。気になりながら、見る機会を逸していた。震災からまだ数年しか経っていない景色の中で、ラジオから語りかける阿部さんの姿と、ラジオ局を辞したのち、嵩上げ完成後に再建された阿部さんの店での姿が交互に描かれる。番組や番組の取材を通して、被災地の日常や町がなくなった場所での祭りや凧揚げの様子を見ることもできる。地図による解説はない。ただ、語られる言葉から、元の町の様子や、当時の様子が伝わってくる景色の映画だった。「空に聞く」は、亡くなったひとたちが空から見て、どう見えるだろうという問いかけに由来する。新しい町の受け入れにも通じるし、最後に出てくる、阿部さんの、それまで過去と現在しかなかったのが、忘れた訳ではないけれど、少し前を見るようになったという言葉をもたらしたものとも思った。
 上映後、小森はるか監督、『RADIO AM神戸 69時間震災報道の記録』の上演企画がある富田大介氏、リスクについて研究されている社会学者の井口暁氏がそれぞれ映画についてのプレゼンを行ったあと、小森監督が質問に答えるトークセッションが行われた。感じたことは、そんなに外れてはいないことがわかって、安堵した。

 外に出ると、雨が降った跡があった。

 通勤時に電車から見えて、気になっていた「ダイソー」のビル店舗に寄って、整理のためのクリアファイルなど購入して、帰宅。

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2023 Kijima, Hebon-shiki