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2020年9月20日〜2020年9月26日
9月20日(日) | 【▼ぐりぐらメモ/2020年9月20日】
書き忘れていたけど、先週の「雲州堂」では、緊急事態宣言解除後、初の「雲州堂で食事」でした。その前の倉地さんのときは、食事する気満々で、「食べてくるわ」と伝えて出てきたのに、人数制限のため、机が無く、食事ができなかったのでした。 今週は、軽く気が重い一週間だった。軽く重いとはこれ如何に。やってくれ、請求してくれていいから、と言われて始めた担当業務について、正当性みたいなもん(なんであいつが、なんで別枠で費用が)が問われ始めていて、そのために経緯を説明しなくてはならなくて。それも発注側と受注側(自分の会社)の両方から。上に、当時のことを知ってるひとはもういない。つまらないことはやらせたいけどギャラは抑えたい、経費は抑えたいが仕事は欲しい、という思惑の間で、やってることの正当性を示せ、と言われても。経緯をたどっていると、しんどかったことをいろいろ思い出すはめになってしまった。 月曜日は家の用事で早くに帰宅したものの、用事を終えると、ぐったりしてしまって、いつの間にか眠ってしまい、起きたら、0時を回っていた、というパターン。モバイルルーターの充電だけはしておかなくては、とのそのそと二階に。でも、メールやツイートをチェックする余裕なく。火曜日、急に発生した予定外の仕事のために、一か月半ぶりに残業。水曜日、木曜日も、根詰めてやるはめに。いや、そういう、予定外の仕事が発生しやすかったから、専任でやってくれという話で別枠になっていたのだが。金曜日に、査問、のような面談。ぼんやりとあてにされて、ぼんやりと仕事しても、ぼんやりと請求できたいままでがラッキーだった、ということで、さて。 NRT(ひょっとして、成田佳洋さんのレーベルだからNaRiTaなのか)のセールで申し込んだCD2作品が届いた。アンドレ・メマーリ、ベルナルド・マラニャオゥン (Bernardo Maranhao)、アレシャンドリ・アンドレス "RA" とルイス・コール "ALBUM 2"。ルイス・コールはラジオで聞いて気になったのに、店頭で見かけることがなくて、そのままになっていた。通販に対するブレーキが効き過ぎているもので。アンドレ・メマーリ、ベルナルド・マラニャオゥン、アレシャンドリ・アンドレスのトリオによるアルバムはジャケの蛙のイラストに引いてしまっていたのだけど、よい機会だと思い。 この土曜日も、「出かけてくるわ」「どこに。また南森町」「うん、まぁ」という会話。買おうと思っている雑誌が、通勤途中の書店でことごとく見つけられなかったため、梅田に寄っていくことにした。電車の中で、市川森一『黄色い涙』を。岸部シローさん追悼で。確実にあるだろうと、茶屋町の丸善ジュンクに行ったのだけど、レジ待ちの行列がすごいことになっていた。あるにはあったが、上の階も覗こうという気力を失ってしまった。「東京人」No.430(特集=まちの記憶を旅する
東京暗渠散歩/豊島区立トキワ荘マンガミュージアムへ行こう)と「ユリイカ」10月臨時増刊号「総特集
別役実の世界 1937-2020」を購入。
「音凪」に。西脇一弘イラスト展のクロージングイベントとして、pocopen
with 西脇一弘、ゲスト bikkeさん、のライヴ。西脇さんの新しい大きな絵は、色が付いて、硬質な色っぽさがありました。イラストは、木片などの物質の質感があるものがやはり、いままでにないかんじでした。その他、sakanaのライヴのためのチラシの原画や「New
Yorker」のような雑誌のコラムに添えられていそうな小粋なイラストがたくさん展示されていました。
きょうは、雨が降らなさそうだったので、昼から思い立って、みんなもう山とは呼ばない、かもしれないけれど、山のほうの公園に。運動不足解消をかねて。なんとか行けるか。そこで、来月、聞きたいバンドのライヴがある、ということで。ちびっこを連れた家族たくさん。長い滑り台のちびっこたちそれぞれの楽しみかたが見られて、楽しかった。公園脇の何故かマリリン・モンローのピンナップが貼ってある老夫婦がやっていると思しき売店で、ペットボトルの緑茶を買ったら、かっちかちに凍らせてあった。部活を思い出す。なかなか飲めなくて、みちみち、ちびちびと降りた。 帰宅して、ダウンロード購入をふたつ。「Minna Kikeru」で、かきつばた『スミヨシ』、「Bandcamp」でYuko Kono『Fragment』。かきつばたの録音はずっと待っていたもの。アナログ盤での発売が予定されているようだけど、その前に音だけ先に。アナログ盤を買うつもりだけど、自作オムニバスに入れたくなるだろうから。Yuko Konoさんは名前に心当たりがなかったのだけど、聞いてみたら、よかった、ので。Dawnあたりからリリースされていそうな翳りがありつつ、しゃんとしてるフォークロック。あとで調べたら、マイ・パル・フット・フットのひとでした。マイ・パル・フット・フットは、「ファン音楽」のかんじが強くて、いまひとつぐっとこなかったのだけど、ソロはよかった。 夜、よしこストンペアの応接間ライヴ配信の告知が突如。見ました。新曲、演劇や個展のために作られた曲、イシダさんのソロなどにもりだくさん。ああ、でも、ライヴを見たい。 |
9月21日(月) |
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9月23日(水) |
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9月26日(土) | 【▼ぐりぐらメモ/2020年9月26日】
月曜と火曜は仕事は休みだったけど、どこにも出かけなかった。特別に何をするという訳ではなかったが(一家揃って参ることは取りやめたけど、墓の掃除だけしに行った)、敬老の日に母を置いて遠出することには引け目があり。 家に居て、よいこともあるもので、月曜日は、百景借景のスタジオライヴ(公開リハーサルのような)配信があった。火曜日は、よしこストンペアの応接間ライヴがひさしぶりに配信された。なんやかんや言うても、そのときに居合わせると、見よか、という勢いがつく。あとからだと、一回性が薄れてしまう。配信疲れという言葉を少し前に使ったけれど、他でも見かけた。追い切れない、払う金がない等々の事情に対して使われていたけれど、向き合いかたが整理されつつあるのかもしれない。
ツイターにライヴの感想を書くのが億劫になっている。始めた頃からずっと感じていることだけど、送り手と受け手が同じ地平に居るので、送り手が居るのに、受け手が代弁めいたことを言ったりやったりすることに引け目がある。代弁するつもりがなくても、それを別の受け手が参考にすれば、代弁と同じようなことになってしまう。送り手が「発信できる」状態なのに、発信しないのは、発信しないという意志があるのではないか。それを受け手が勝手に発信するのは、その意志を無視することになるのではないか。例えば、セットリスト。曲名が告げられなかった曲をいいなと思った受け手がそのことを覚えておくための情報として流したい気持ちはあるし、受け手の間でだけ共有されるのであれば、いいように思うのだけど、エッセネッス上では、送り手が発信できるのに発信しないものになる、ような気がしている。…で、言い訳のようだけど、分析や詳細描写といった代弁行為は避けて、他のひとにとってはどうでもいい個人の感想や周辺の出来事の報告にとどめるようなことになりがちです。なおかつ、「きじまさん情報」にはしたくない。わたしがどういうひとかということは、そこでは要らない。視点として面白かったり、記録として楽しめるものにしたい。と、書いていて、ああ、これは、『ライブ漫筆』で安田謙一さんがやってはることやんか、と思い当たる。 視点や記録を他のひとが楽しむかどうかについてはあまり自信がない。ツイターで、面白がって書いた「情報」はあまり受けなくて、つまんねーな、と思ったことに対して、つい書いてしまう失望や怒りの説明のほうがよく読まれているみたいだから。情報というのは、例えば、デイヴィッド・アレンの "GOOD MORNING!" で共演してるEuterpeの単独アルバムがApple Musicで聞ける、とか、西村和彦ファンの母が見ている『警視庁鑑識班』で、被害者の本棚に「ミュージックマガジン」や「レコードコレクターズ」が並んでる(第5作)とか、バッド・カンパニーのファーストアルバムとそこに挟み込まれていた1973年3月3日、武道館公演のチケットが事件の真相を解く鍵になる(第11作)といったようなことです。おもろい、楽しい、と思ったんやけどなー。 自信がないと言えば、うわーっと思った音楽や演奏について、ええなと思うひとに届いてほしい、と思って紹介することもあるのだけど、反応がそんなにということもままあって、どうしたもんじゃろか、と。ええと思うんやけどな。ひとりで騒いでるみたいになったら、当人も迷惑だろうし。「こう感じるのはわたしだけだろうか」というクリシェは自慢気なところが大嫌いなのだけど、ほんとにわたしだけだったらつらいぞ、と思うからでもある。という文脈で名前を出すのは、どうかと思うけど、橋野桃子さんのアルバム、ええと思うんやけどなー、先日の「音凪」で、ジョナサン・リッチマンの "I, JOHNATAN" がかかっていたときも、橋野さんにはこの感触もある(言ってみれば、ひとりおとなしめガレージパンク)と思ったりもしたのだけど。 木曜日、10月初旬と伝えられていた鈴木裕人著『龍膽寺雄の本』が早くも届いた。作家・サボテン栽培家・研究家(彼にならってシャボテンと言うのはちと照れる)の龍膽寺雄の作品、エッセイの再録の他、近親者による描写、ラジオでのインタビュー書き起こし、読み方・読まれ方、年譜、書誌をまとめた一冊。至れり尽くせりですが、わたしのような、手に届く範囲で見かけたら読んでみる程度の浅めの読者にとっても、入門編になる親しみやすさがある。文壇から外れた異端的な存在と思っていたけれど、当時は、人気作家であり、サボテン愛好家を含む読者との交流も盛んだったということが読み取れるようになっている。鈴木さんは文芸誌「夜泣き」を主宰されているひとで、そう言えば、ずいぶん前に、龍膽寺雄特集を予定しているという話を読んだことがあった。特集が発展して、一冊の単行本となったのかもしれない。山川直人さんが表紙や本文のイラストを担当されていて、その縁で、南陀楼綾繁さんが紹介されているのを目にして、詳細が出たあと、すぐに申し込んだ。 通勤読書の『黄色い涙』を金曜日の帰りに読み終えた(途中で読む本をいろいろ寄り道したもので)。終盤のうまくいかなさはにはやり切れない思いがする。 きょうは運動不足解消を兼ねて、京都を歩くことにした。四条河原町を起点に、三条「nowaki」で嶽まいこさんの個展、出町柳「トランスポップギャラリー」でキングジョーさんの個展「ILLUST
FOR LIFE」(タイトルがうまいっ)、丸太町「誠光社」で『喫茶の一族』北林研二原画展、「三月書房」跡を経由して、安田謙一さん一日店員をされている「100000tアローントコ」へ。
途中、北に折れる道を探しながら、東に向かっていたら、中古盤店を見つけて、入ってしまい、出たときには、すっかり北に折れる道を探していたことを忘れていて、東に行き過ぎてしまった。見たことのある景色に出くわして、行き過ぎたことに気付いた。でも、おかげでひさしぶりに京大吉田寮や西部講堂を眺めることができた。知らない新しい建物もできていた。これのために立看を撤去したのか。 |
2020 Kijima, Hebon-shiki