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2019年6月16日〜2019年6月22日


6月16日(日) 【▼ぐりぐらメモ/2019年6月16日】
 買い物とクリーニングの引き取りのあと、その足で、昼前に外出。いろいろ迷ったけれど、一年ぶりに「みんぱく」に行くことにした。去年の地震の前日に行って以来、結局、一年間、来られなかった。「みんぱくワールドシネマ 第45回上映会」として、アマンダ・シェーネル監督『サーミの血』の上映があった。音楽の面から、見たいと思っていた映画だけど、タイミングが合わず、見逃していた。みんぱくで解説付きで見られるのなら、と予定に入れていた。ゲン担ぎではないけれど、良くないジンクスをちゃらにしたいという気持ちもなかったとは言えない。

 『サーミの血』は、1930年代のスウェーデンで、隔離政策が取られていた遊牧民族、サーミ人の少女が、屈辱的な扱いから脱出しようと、自らの出自を隠して同化を図り、その結果、家族を否定し、捨てることになる、苦渋と悔恨の物語。このままでも苦しい、ここから逃れることも苦しい、それを選ぶことも苦しい。彼女の脱出がうまく行くことを願いつつ、どうするつもりか、どうにもならないのではないかという心配が強く続いた。サーミ人の音楽、ヨイクを、主人公は嫌っている。主人公の妹は、どうやら、ヨイクに長けているらしい。即興で歌にしたりもする。主人公が頼った男の子の学生仲間は、人類学専攻で、パーティ会場に訪ねてきた主人公に、悪気なく、ヨイクをリクエストする。ヨイクは、無伴奏で歌詞がないことも多いヴォーカル曲で、滑らかさがゆったりとした流れを感じさせるものの、華やかさ、賑やかさはない。主人公にとって、否定すべき、サーミ人としてのアイデンティティの象徴にもなっているようだった。

 開場が13時からだけど、整理券の配布が行われているというので、整理券をもらってから、いつも「みんぱく」に行ったら、寄ってのんびりする休憩所で軽く食事をとって、始まるまでのんびりし、映画が終わってから、展示を見るつもりだった。のだけど。その休憩所が閉店になっていた。「みんぱく」内のレストランはちょっと敷居が高い。で、始まるまでの一時間、昼食抜きで展示を見ることにした。「みんぱく」で一時間などあっという間だから。上映会が開場すると、13時30分で臨時休館することが告げられた。早朝、千里山駅近くで、拳銃強奪事件があり、その犯人がまだ逃走中だったため、安全対策として、閉めることにしたとのことだった。結果的には先に見ておいてよかったのだけど、いろんなことがある。

 雨が降りそうだったので、いつもとは違うルートで行った。かつて遊園地があった場所にできた商業施設のほうに行く機会がなかったのだけど、帰りに寄ってみた。「ニフレル」は最終入場時刻が過ぎていた。映画もその時刻に見たいものなく。帰りかけて、そやそやと観覧車に乗った。イチビル ニ チビル(チビってません)。えー、一応、ニフレル ニ フレルのもじりです。

6月17日(月)
[一回休み]
6月18日(火)
[一回休み]
6月19日(水)
[一回休み]
6月20日(木)
[一回休み]
6月21日(金)
[一回休み]
6月22日(土) 【▼ぐりぐらメモ/2019年6月22日】
 日曜日に「みんぱく」に行って、月曜日の朝を無事に過ごしたことで、ジンクスが消えたことにして、気持ちを新たにしようと思っていたのに、新潟でまた大きな地震が起きた。災害は起きたときだけでなく、その後の片づけや対策が長く続くのがしんどい。ただただ少しでもひとりひとりの被害が少ないことを祈っている。去年の地震や台風を起点に、家に関して続いていたもやもや案件も、金曜日にやっと収束した。このことについては、いったん縷々書いたのだけど、ここでは、望んでいなかったことで無理な要求をしたかたちにさせられ、恥ずかしい思いをさせられたということ、伝言すら伝わらず、連絡がなかなかつかなかった一方的で強引な手法に疲弊させられたということだけ。

 母も気に入っていて、よく食べに行っていたものの、3年前、母が手術のために入院している間に閉店が告知され、それからは連日行列で、行くことができなかったラーメン店があったのだけど、帰りにいつもとちがうルートで帰ったら、近所に、やっているひとはちがうようだけど、同じ系統のラーメン店が近所にできているのを見つけた。という訳で、忌明けではないけれど、憂鬱の原因がひとつ片付いたこともあり、早速、昼に食べに行った。行く前に、「前のとこと味が違うとか言うたらあかんよ」と釘を刺しておくつもりだったのに、買い物もあるので先に行って、行けそうだったらメールする、ということになり、言いそびれた。さて、出るときに「おいしかったよ」と店員に声をかけていたので、OKだったか、と安堵したのだけど、家に戻る途中で、「ああは言ったけど、やっぱりちょっとちゃうなー」と言うのであった。わかっとったか。テレビを見ながらだと、結構ひどいdisりをやっているので、心配してたのでした。

 ひつこいようだけど、母親をひとりにしておく時間を減らす理由がひとつ片付いたので、出かけられる、のだが、まだ調子が出ない。なんとなくでは出られない。しかし、出ないでいるのも、もったいない。6月23日に閉店する本町・船場「HOPKEN」のクロージングイベント「The Last Day of HOPKEN Day3」を覗くことにした。若いひとたちということもあり、ほとんどやりとりはしなかったけれど、いい場所だったし、いい機会をたくさん作ってもらった。買い物だけに行ったこともあるし、食べにだけ寄ったこともあった。そう言えば、いまの小さなビルに移ってから最初に行ったとき、靴を脱ぐべきところ、他に誰もおらず、うっかり靴のままあがってしまったのだった。CD棚を眺めていると、来たときどきが思い出された。一般流通していないCD-R作品も並んでいるので、ああ、見に来たとき、物販で売ってたやつだ、ということもあり。
 
 「HOPKEN」に限らずだけど、開場時刻まで付近をうろついたり、近所の店で休んだりということをよくやっていたので、記憶は周囲も込み。周辺を歩いていたら、知らなかった書店を見つけた。「本」という文字を見つけるたびに、藤子不二雄「流血鬼」で十字架に弱い理由を詰問されて「それはある種のパターン認識が」と答えていた場面が頭をよぎるな。「toi books」という店で、小出版社の本も置いている。島田潤一郎さんの『90年代の若者たち』と「なnD」7号を買った。

 「HOPKEN」では、ダクソホンの森山ふとしさんが加わった行楽猿Y、secret guestとして王舟さんの演奏を聞いた。行楽猿Yは、ダクソホンにあてた曲、途中までということだけど「HOPKEN」に捧げた曲などが演奏された。王舟さんの歌を直に聞くのは初めてだと思う。アメリカのフォークソングの練達者を思わせる佇まいに、ループを使ったリズムやコーラスがミックスされていた。最後の曲がよかった。
 ここで、いったん出ることに。CD棚に気になるものがあったので、記念にということもあって、手に抱えていたのだけど、見てみると、既に2階のレジは外されている。イベントはひとでいっぱいであわただしい。戻そうかなとも思ったのだけど、「HOPKEN」杉本さんにダメ元で訊いたら、いいですよ、と。無理を言って、すみません。イベントはまだまだ続いているので、そのとき、言葉にはしなかったけど、いい場所といい機会をたくさん作ってもらったことに感謝しているし、ひとまずはお疲れさまでしたという気持ちでいっぱいだった。外に出て、どうしようか迷ったのだけど、これからやってくるひとも多いだろうから、スペースを譲るということもあり、そこで「HOPKEN」をあとにすることにした。雨も降ってきたので、歩き回ることもできず、帰宅。

 「HOPKEN」で買ったのは、先日のバンド編成ライヴは予定が被って行けなかったyojikとwandaの2013年のミニアルバム『楊枝と椀』、「HOPKEN」で見たとき、所持金不足で2作目『カーテンコール』しか買えなかったに角すいの1作目『反射する余韻』、「円盤」の作品を扱ってくれていたということで、訳あって長らく手元になかった倉地久美夫さんの『庭にお願い サウンドトラック』を。気になるアナログ盤もあったのだけど、目立つので控えてしまった。

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2019 Kijima, Hebon-shiki