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2019年2月3日〜2019年2月9日


2月3日(日) 【▼ぐりぐらメモ/2019年2月3日】
 内田樹さんの橋本治さんへの追悼文に「橋本さんの書くものは本質的に「説明」である。(中略)自分で自分に向かって説明しているのである」「きちんとした説明をするためには(中略)「自分が知っていること」をとりあえず「かっこに入れる」ことができなければならない」とあった。わたしは、一種の洒落で、「説明業」を名乗っているけれど、説明するということに込めている思いもあって、あまり明確に意識していた訳ではない、それらを言い当てられているように受け取った。
 
きちんとした説明をするためにはいくつか守るべきルールがある。

第一に、そこに「自分の意見」を混ぜてはいけない。主観的な好悪や良否の判断を混ぜ込むと、説明は濁って、わかりにくくなる。

第二に、「自分が知っていること」は当然読者も知っているはずであるという前提を安易に採用してはいけない。「周知のように」と冒頭に告げてから、読者の知らないことをずらずら平気で書くような人間は説明には向かない。


「自分の知っていることを知らないことにする」という技術を、内田さんは「情報を抜く」と呼んでいる。そうしたものを、現象学やらウィトゲンシュタインやらをかじったり、仕事で取扱説明書を作ったりしていることで培われたものと思っているのだけれど、それ以前にそうしたものに反応する素地があったのかもしれない。
▼内田樹「追悼・橋本治」(書評「説明する人 ― 橋本治」を含む)
http://blog.tatsuru.com/2019/01/29_2029.html
 

2月4日(月)
[一回休み]
2月5日(火)
[一回休み]
2月6日(水)
[一回休み]
2月7日(木)
[一回休み]
2月8日(金) 【▼ぐりぐらメモ/2019年2月8日】
 iPad miniの充電を忘れて出てしまい、朝、往路の間に切れてしまった。帰りは、音楽聞けず、つぶやきも読めず。帰宅して、iPad miniに電源ケーブルを挿し、パソコンを点け、夕食を撮ってから、母親が珍しくテレビで洋画を見ている傍らで、つぶやきを追った。

 うらたじゅんさんが亡くなられたことを、桂牧さんが伝えていた。昨日の夜、亡くなられたそうです。読売新聞の連載で挿絵を担当されていたからか、12時にニュースも配信された。

 うらたさんの絵は、母親も気に入っていた。2009年9月に本町「ミリバール・ギャラリー」でうらたさんの個展が行われたときは、うらたさんから届いた案内ハガキを見て、知らない間にひとりで見に行ったりしていた。その後も、京都「トランスポップギャラリー」での個展のハガキを、もらえるものなら3枚もらってきてほしいと頼まれた。高校時代の友達に出したいから、ということだった。
 うらたさんが亡くなったことを伝えるかどうか、迷った末に、伝えないことにした。時間が経って、もしどうしているのかと訊かれることがあったら、そのときに伝えようと思う。

 うらたさんのことを知ったのは、16歳のとき。評論主体の漫画雑誌「ぱふ」のアマチュア作品批評ページ「ぱふまんが倶楽部」に掲載された投稿作品で。住所が枚方市になっていたことも、記憶に残った要因だったかもしれない。うらたさん24歳。それから10年近く過ぎて、あがた森魚さんのライヴの帰り。よく見かける顔で駅までそぞろ歩きしているとき、仲良くなっていた、いまいかめがねすーすーというバンドを夫婦でやってるつぼたくんから、紹介されたのだと思う。「ぱふに投稿していた」と聞いて、すぐに思い出した。「あの作品の」となって、「よぉ覚えてんなー」とうらたさんに言われ、「とても印象的だったので」とかなんとか答えたように思う。

 漫画も続けられていて、やりとりするようになって、読む機会もできて、やっぱり、とても良かった。やわらかくて、とぼけたユーモアがあって、でも、失われたものへの強い思いがあって。

 うらたさんは、人が好きで、人に話をするのも、人の話を聞くのも好きで、たくさんの人をつないでいたと思う。たくさんのひとに紹介してもらった。初対面のひとに、きじまくんはこんなことやってるんよ、て。そんなひとたちに、うらたさんの信用で、信用してもらったところが大きかったと思う。

 書いたものも、よく褒めてもらった。「友達だとか知り合いだとか、そういうところで書いてへんのが偉いよね。きじまくんの書いてるものがええと思って読んでるひとがおるんやもんね」とよく言われた。

 もう話を聞いたり、話をしたりできへんねんな、と思って、声や笑顔を思い出しています。いまは思い出すことしかできない。変な日本語かもしれないけれど。

2月9日(土)
[一回休み]

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2019 Kijima, Hebon-shiki