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2018年7月15日〜2018年7月21日


7月15日(日) 【▼ぐりぐらメモ/2018年7月15日】
 暑くて動き回るのはしんどいので、のろのろと部屋の片付けをして過ごしたのち、昼遅くになって、外出。おもいつきで、「男の日傘」の代わりに、30センチ四方の段ボールを翳すのはどうか、と思い、レコード袋に入れて、持ち出した。何故に日傘は女性のみかという問題は確かに気になるところではあるものの、言うたら、雨の日でも別に傘が好きな訳ではなく、しかし、レインコートはもっと面倒なのでいたしかたなく、なのだ。帽子も同じく。ひとのを見てかっこよいと思ったことがないのに、自分がサマになるとは到底思えない。しかし、熱中症だけでなく、皮膚がやられる、紫外線にやられるのも困る。という訳で、30センチ四方の段ボール紙片をレコード袋に入れて翳せば、カモフラージュになるのではないかと。実践しての問題点。(1) 日を背にしたときの姿が間抜けだった。(2) バッグに入るはずが入らず、日が落ちてからも提げることになってしまった(小さくすることで解決する)。(3) レコード袋に段ボール、だと竹光感がすさまじく、心が折れそうになった。…レコード袋を提げた者同士がすれ違う。一方が「ふっ」と笑う。「何がおかしい。無礼であろう」とレコード袋の開け口に指がかかるも、「ほう、抜けるものなら抜いてみよ」「うぐぐ」となりそうで。

 北浜「雲州堂」での音凪企画7周年記念特別興行「夏の倉地祭り2018」に。出演は、佐藤幸雄とわたしたち、倉地久美夫×外山明×宇波拓。佐藤幸雄とわたしたちは昨日に続いてだけど、「雲州堂」でも聞きたかった。「UrBANGUILD」では、左から、柴草さん、佐藤さん、POPさんの順でしたが、「雲州堂」では、POPさん、佐藤さん、柴草さんの並び。ピアノがよく聞こえる。演奏曲も一部異なり、わずかな音で言葉を際立たせる曲がいくつか。激しい音も散らばらずにそこに留まるようなかんじが、「雲州堂」の音やなと思う。
 倉地久美夫×外山明×宇波拓。イギリスで発売が予定されている新作からの曲が中心。宇波さんのギターは、倉地さんとは異なり、ミニマルな音を細かく奏でていて、補完しているようでもあり、隙間を際立たせているようでもあった。演奏が既に多声的であったからか、1曲の中で倉地さんが何人にもなるところは少なく、直球な印象がありました。
 歌や音楽が自在に鳴っていることをしみじみ感じる演奏会でした。

7月16日(月)
[一回休み]
7月17日(火)
[一回休み]
7月18日(水)
[一回休み]
7月19日(木)
[一回休み]
7月20日(金)
[一回休み]
7月21日(土) 【▼ぐりぐらメモ/2018年7月21日】
 仕事は、このところ集中して取り組んでいた長期課題が停滞し(回答待ち)、次の仕事の準備とか指示出しとか。ミス対策の一環で、守備範囲が増えた。最後の砦的な。対象を絞っているから拾えているだけのような気がしなくもないが。餞別コンピ案件発生。寂しいことだけど、片付けの動機付けにはなる。と思ったが、暑くて連続30分が限界。汗が本に落ちまくる。そして1曲目に予定している曲の入ったCDは見つからない。他にもひさしぶりに聞き直したものがいまひとつだったり。

 保険会社の調査立ち会いや市役所での罹災証明発行など。臨時の受付場所が、中央図書館のある建物だったもので、しばらく本を借りる予定にはしていなかったのだが、母親に朗読CDを薦める意図もあって寄ったら…3冊借りることに。駅構内の喫茶店で、かき氷。カップのではないのが食べたい、とずっと言っていたので。夕方、帰宅。半日仕事になってしまった。

 ちょっとしたショックでも、老齢の身には堪えられないかもしれないので、ひやひやする。父が亡くなる前に体調を崩したきっかけは、身体的には夏の暑さだったように思うけど、姉のような存在だった従姉の訃報を聞いたことだったように考えている。

 被災対応への批判に対して、災害に便乗して政権批判をするな、という論調をみかけたけど、それこそ、政権批判への災害に便乗した批判、やんねぇ。大阪北部地震でも「高槻」という地名が知られたからだろう、この機に乗じて、「高槻方式」と呼ばれた高校進学の地元集中運動への批判を今頃やっているのも居て、げんなり。廃れてから二十年近く経っているのに。それにあれは、全体のことを考えろ、わがまま言うな、というものだから、教育勅語の何が悪いと言う立場からすれば、それこそ、何が悪いと言うべきではないか。日教組主導だから貶めたいというだけ、て、あれこれ綴るまでもないことではあるけれど。名指ししてもいいけど、名指ししたからとて悔い改める訳なく、そういう物言いをしているひとたちがしょうもないということが伝わればそれでいい。

 地元集中運動の「被害者」になるほど優等生ではなかったけれど(うれしがって「情報提供」している連中は、優等生だったことを自慢したいんかねと思ったりもしますが、やめときます)、高校は行きたい(かつ、行ける)とこに行けばいい、とは思ってたし、辟易していた。あれは、教職員だか組合だかなんだか、対世間、対組織の都合によるところが大きかったと思うし、右左関係なく起ることだと思う。相対化するつもりはさらさらないです。そうした都合に基づく理屈はしょうもない。でも、かこつけて何か言った気になっている手合いはそれ以下だと思う。

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2018 Kijima, Hebon-shiki