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2016年7月31日〜2016年8月6日


7月31日(日) 【▼ぐりぐらメモ/2016年7月31日】
 18時までに戻る必要のある用事があったので、隣市で、庵野秀明・樋口真嗣監督『シン・ゴジラ』を見ることに。例によって、開場時刻に着くというぎりぎりになってしまったけれど。世間話もできないと、という思惑もありつつ。未曾有の災害に対処するプロたちを描いた再現ドラマみたいだった。思惑や打算渦巻く中、とにかくなんとかしないと、という姿勢になれるのは、相手が相手だから、だけど、そういう相手として描けていた、と思います。あれこれ思い出す作品があるのだけど、それを書くと見る前に物語や仕掛けを推測させることになるので、書きにくい。思い出させるというのは、なぞっているということではなく、「怪獣もの」が持っている、あるいは生み出してきたモチーフを継承しているということです。
 これまでの怪獣ものとちがうなと感じたのは、人間側に主人公が居ないこと。個人的なドラマは描かれない。仕事する姿の中に垣間見られる程度。対策を実行するにあたり、尽力したことに対して、労いの言葉をかけると、「礼はいりません。仕事ですから」と返す場面が印象的だった。
 そう言えば、先月新しく入ってきたひとの、うちでの初めての仕事を先週チェックして、いくつか指摘をしたら、一段落してから、そのひとに改めて礼を言われて、「(改めての)礼はいらんよ。仕事だから」とか言うてたな、オレ。『シン・ゴジラ』公開前でよかったー。でなくても充分、何言ってんだか、だけど。

 映画終了後、外に出ようとすると、雨。降ると思っていなかったので、何の用意もしていない。前にも、ここでそんなことがあったなぁ。雷がどんどん言ってて、あやしげな雲が覆いかぶさるようにそびえているのを見ながら、しばらくエントランスのところで雨宿りすることに。
 失敗したのは、テキスト入力機を持って出るのを忘れたこと。書く材料は詰めこんでいたのに。

 という訳で、メモだけ。今週の通勤読書行きの部は、「ロック画報」26号、はちみつぱい特集。「フジロックフェスティバル」出演時のパンフ代わりに企画されたのかと思っていたけど、そういう訳でもなさそう。小川真一さんのはちみつぱいへのラブレターのような文章と各人へのインタビューを中心に、ディスクレビュー、再結成ライヴ評、関連エッセイで構成されている。インタビューでは、駒沢さんの役割が大きかったことが覗えたり、未発掘録音に触れられたりしているけれど、あっさりした印象。小川さんが過小評価されていると考える一方で、後の世代からはムーンライダーズよりも評価されていた時期があったとの記述があり、位置付けの変遷は検証してみてもよいかもしれない。わたしはと言えば、ムーンライダーズの「企画意図」には距離を置いてしまうけれど、はちみつぱいにはそれがなかったことや、サイケデリックな感触があったことから、そうした抵抗なく、愛聴してきた。「センチメンタル通り」にはキング・クリムゾン "The Court Of The Crimson King"、「薬屋さん」にはイエス "And You And I" の影をちらっと感じるし…と言うようなことを指摘する声は他では聞いたことがないので、気のせいかもしれないけれど。

 東京・南青山「ビリケンギャラリー」で開催された『わたしの「センチメンタル通り」展』から数点、掲載されているのはうれしい。中でも、そこには出品されていないさべあのまさんのイラストが掲載されていることは買う動機のひとつでした。屋根の上で踊るひとやたなびく雲など、初期のさべあさんのモチーフも織り込まれていて、よかった。
 映画音楽について書かれたエッセイは、ムーンライダーズ期に間違って(?)ぱい的な音楽がオファーされたと思しき『サチコの幸』が触れられていなかったり、『夜にほほよせ』が「公開当時」ピンク映画のタイトルが付けられていたとしていたり(実際は、改題は公開後)、あがたさんのバックでの参加しかないのに『僕は天使じゃないよ』を大きく扱ったりと、少々残念なものだった。

 2016年の再結成ライヴの実況録音盤『RE:AGAIN』は、再現でもアップデートでもなく、いまの技量、いまの感覚でやってみようという意図がうかがえる音があちこちに聞こえる演奏でした。通しで聞いて、なんか聞き落したようなと思ったら、「酔いどれダンスミュージック」が入っていなかったことには驚いたけど。

 驚いたと言えば、「ロック画報」の付録CDに1974年9月18日、日仏会館でのライヴ録音の未発表分として収録されている演奏が、「春一番」1972年(「塀の上で」)と1973年(「こうもりが飛ぶ頃」「煙草路地」)と同一音源であったこと。おやっと最初に思ったのは、「塀の上で」の歌詞違い。そのバージョンでたびたび演奏することもあったのかなくらいに思ったのだけど、たまたま、スティーヴ・ヒレッジやピンク・フロイドのものすごい枚数のボックスセット発売の報に、「みんなで出し合って、各々好きなのを分けた」という知人の話が大好きな『春一番』10枚組ボックスを話題にするついでに、その8「あがた森魚とはちみつぱい」を聞き直してみたら、やっぱり、なのだった。73年版は、まさにアルバム未収録の2曲が聞きたくて買ったものなのだけど、収納のしかたに勘違いがあって、なかなか探し出せなかった。呟きを検索したみたら、同じように気付いたひとがいて、73年版もそうらしい。でも、自分の耳で確かめてみないことにはと思っていたら、土曜日の夜にようやく見つけることができた。ファイルしてると思っていたら、薄型の2枚組ブラケースに移し替えていた。で、聞き比べた。同じだった。仕事でこういうことが起こったときのことを思い起こし、胸が痛むし、腹がどんよりする。日仏会館の録音はあるのか、あるとすれば、プレスミスだったということでなんとかなればいいのだけど。

8月1日(月)
[一回休み]
8月2日(火)
[一回休み]
8月3日(水)
[一回休み]
8月4日(木)
[一回休み]
8月5日(金)
[一回休み]
8月6日(土) 【▼ぐりぐらメモ/2016年8月6日】
 先月からヘンだなと違和感を感じていて、歯医者に行ったほうがいいかなと思っていた矢先の火曜日、奥歯が欠けた。加えて、水曜日の夜から、軽い頭痛がして、翌日からはハナミズが止まらなくなった。夏風邪みたいだ。金曜の夜の予定もキャンセル。帰宅して、しばらくして、すぐに眠ってしまった。夜中というには早い時刻に目が覚めて、それから慌てて、ビデオレコーダーのハードディスク整理。リオデジャネイロオリンピックの開会式に、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルが出演するというので、録画しておこうと。長時間になるので、空きを確保しておく必要があり。こんな風に慌ててハードディスクの整理をしたのは、ロンドン・オリンピックの開会式以来ではないか。カエターノ&ジルの出演はクライマックスではあるものの、あっさりしていたけれど。

 今週の通勤読書は、長門芳郎さんの『パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録 1972-1989』を。作品を通じて知るのみの身には意外な人の繋がりがあちこちに。ヴァージンVSの木村しんぺい氏がシュガー・ベイブに、とか、細野さんの中華街ライヴを撮影したのはドキュメンタリー映画監督の伊勢真一さんとか。伊勢真一さんのドキュメンタリー映画はいくつか見ているけれど、プロフィールにそのようなことは書かれていなかったので、驚いた。長門さんから直接お返事をいただいた。古くからのご友人とのこと。中華街ライヴの映像を収めたDVDが入っている細野晴臣さんの『クラウン・イヤーズ 1974-1977』のブックレットに記述があったっけと思って引っ張り出してみたものの…ブックレットが行方不明。でも、ひさしぶりに見直しました。映像の中にはクレジット等はなかった。
 長門さんは出会いの達人なのだと思う。出会いをしっかりと繋げていき、それがまた新たな出会いを招く。長門さんは、好きなミュージシャンたちを支えてきた裏方という面もあるけれど、わたしにとっては、なにより、素敵な企画者であり、解説者です。
 長門さんの解説の特徴も、出会いの楽しさにある。意図してのものかどうかわからないのだけど、長門さんの解説にはデータを網羅することよりも、読んでいくと、抜けていたピースに思い当たるような、そんなところがある。そんなピースがたくさん綴られた本でした。触れられているレコードを聞き直してみたり、「宝島」78年12月号(特集=大研究!輸入レコード&ショップス)をひっぱり出して再読したり。

 先週、空いた時間に見た『シン・ゴジラ』。話題作を封切直後に見るということがふだんほとんどないので、話すことに慎重になっていて、感想を検索したりしていなかったのだけど、被害者が描かれていない、政府礼賛だという見方が出てきているらしい。「話題」になると、それをネタに自分の領域で語りたがるという傾向を感じなくもないけれど、それにしても。政治家や官僚の動きに焦点を当てた作品であることは確かだけど、あり得ない規模の巨大未確認生物(かどうかもあやしい)駆除に翻弄される戯画化された描写が礼賛に見えるとは。被害の惨状を描き、政府の無力、人間の無力を突き付けないとあかんのか、管理側(政治家、官僚)を「使う」ことは考えていないのか、ということもあるし、表立っては描かれていない、まぁ、管理側にとっては顔のない「労働力」扱いではあるけれど、そうした姿を想像できないのかな、とも思う。個人的なドラマが描かれていないことを面白く思ったけれど、それはこれまでの怪獣ものの「ドラマ」が付け足しのようものであることがほとんどであることへの批評だからで、だからいいのだということではない。簡単に「判例」にしてしまうひとが多い、というか、そういうひとが簡単に発言してしまうのだろうなと思う。

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2016 Kijima, Hebon-shiki